東京高裁に発破をかけられたNHK~バウネット事件2007年01月31日

政治家に阿って番組内容を改変することはダメだって言われたんですよ>NHK

「NHKが番組改変」 200万円賠償命じる 東京高裁asahi.com

旧日本軍による性暴力をめぐるNHKの番組が放送直前に改変されたとして、取材を受けた市民団体がNHKなどに総額4000万円の賠償を求めた訴訟の控訴審判決が29日、東京高裁であった。南敏文裁判長は「制作に携わる者の方針を離れて、国会議員などの発言を必要以上に重く受け止め、その意図を忖度(そんたく)し、当たり障りのないよう番組を改変した」と指摘。「憲法で保障された編集の権限を乱用または逸脱した」と述べ、NHKに200万円の支払いを命じた。NHK側は同日、上告した。

この問題については以前別ブログで述べたことがありますが,

矮小化の破綻を圧力更には論点すり替えで凌ごうとする人たち

中立と公平

この度判決文を入手できたことから,読んでみました。

編集権についてはこの判決はかなり広く認めていますが,本件のNHKの行為については強く断罪していますね。

判決では,番組内容改変の経緯について詳細に事実認定した上で

(平成13年1月)26日以降,本件番組は制作に携わる者の制作方針を離れた形で編集がなされていったことが認められる。

上記のような経緯をたどった理由を検討するに,前認定のとおり,本件番組に対して,番組放送前であるにもかかわらず,右翼団体等からの抗議等多方面からの関心が寄せられて一審被告NHKとしては敏感になっていたこと,折しも一審被告NHKの予算につき国会での承認をえるために各方面への説明を必要とする時期と重なり,一審被告NHKの予算担当者及び幹部は神経を尖らしていたところ,本件番組が予算編成等に影響を与えることがないようにしたいとの思惑から,説明のために松尾と野島が国会議員等との接触を図り,その際,相手方から番組作りは公正・中立であるようにとの発言がなされたというものであり,この時期や発言内容に照らすと,M放送総局長とN局長が相手方の発言を必要以上に重く受け止め,その意図を忖度してできるだけ当たり障りのないような番組にすることを考えて試写に臨み,その結果,そのような形へすべく本件番組に直接指示,修正を繰り返して改編が行われたものと認められる。

と認定しています。

その上で判決は,この改編について,「当初の本件番組の趣旨とはそぐわない意図からなされた編集行為」であるとし,その認定を前提として,本件番組の制作・放送について,「憲法で尊重され保障された編集の権限を濫用し,又は逸脱したもの」「取材対象者である一審原告らに対する関係に置いては,放送事業者に保障された放送番組編集の自由の範囲内の者であると主張することは到底できない」としています。

また判決は,NHKらの原告らに対する説明義務違反を認定するに当たり,「一審被告NHKは憲法で尊重され保障された編集の権限を濫用し,又は逸脱して変更を行ったものであって,自主性,独立性を内容とする編集権を自ら放棄したものに等しく」とまで述べています。

つまり,国会議員の発言の意図を忖度して番組内容を改編することは「編集権」の行使ではないと言っているのです。これは,高裁がNHKに対し,編集権というのは政治家の発言の意図を忖度して行使されるものであってはならない,政治家からの自主性,独立性を発揮する形で行使しろと発破をかけた(叱咤激励した)ものと言えるでしょう。

この問題に関して読売は社説(1月30日付)で,

ただ、懸念されるのは、編集の自由の制約に関する司法判断が拡大解釈されて、独り歩きしないかということだ。

報道の現場では、番組や記事が取材相手の意に沿わないものになることは、しばしばある。ドキュメンタリー番組や新聞の連載企画などでも、より良質なものにしようと、編集幹部が手を入れたり、削ったりするのは通常の作業手順だ。

「編集権」の中の当然の行為だが、それすら、「期待権」を侵害するものとして否定されるのだろうか。2審では「期待権」の範囲がNHK本体にまで拡大された。そのため、報道機関全体に新たな義務が課せられる恐れが強まった。

としていますが,判決は,予算審議への影響を考え,政治家の発言の意図を忖度してなされた番組改編行為であって,当初の本件番組の趣旨とはそぐわない意図からなされた編集行為である(つまり,「より良質なものにしようと」した行為ではない)と認定しているのですから,読売の言う心配は当てはまりません。私から見ると,むしろ判決はかなり広く編集の自由を認めているという感を受けました。

この事件について問題となった政治家(安倍官房副長官(当時))からの圧力の有無についてはヤメ蚊さんのページで既に詳しく論じられているとおり,個別具体的な指示・圧力はなかったかもしれないが暗黙の圧力(少なくとも,圧力と感じられるような状況・行為)はあったというのが適当でしょう。

このような圧力を感じ,それに阿るようなNHKの番組編集,運営のあり方を本判決は問題視するものですが,NHKに無いものねだりをするわけにもいきませんから,NHKが政治家の圧力を受け流せるような制度作り(予算審議権を通じた放送内容への介入の排除)を市民の側で考え,提案することも必要なのかもしれません。

NHK問題~公共性と議論2007年01月31日

NHK問題武田徹著,ちくま新書)

通勤時間と週末を利用して10日ほど前に読み終わったのですが,感想をアップしそこねているうちにバウネット対NHKの事件の判決が出てしまいました。

本書はNHKが公共放送と言われていることの意味を追求した本で,とても刺激的な本です。

著者は「公共」について,ある特定の利害関係を有する人々の間の「共同性」から解き放たれたものであるべきものとしています。

公共という場合,日本では従来,国や「お上」がやることと同一視されることが多かったように思います。しかし著者は,そのような実質を持った「公共性」は,一定の利害を共にする人々の利益を図るものであって「共同性」の中に閉じこめられたものにすぎず,真の公共性は外に開かれたものでなければならないと主張しています。

このような公共性のあり方を日本国,政府もしくはNHKという組織内部の「共同」の利益の中に閉じこめてしまおうという,政治家(具体的には安倍首相)やNHK幹部の意向が裁かれたのが1月29日の東京高裁判決だったのでしょう。

しかしこの判決に臆することなくNHKは安倍の「この判決で、政治家が介入していないということが極めて明確になったと思う」といった発言を垂れ流しています。組織のメンツ維持の論理を優先し,権力者に阿るNHKの姿勢に本書の著者が失望する(著者の日記(1月29日付)「ETV2001判決と安倍」)のも当然でしょう。

ところで「公共性」が開かれたものであるといっても,ではそれを誰が決めるのか?という問題は残ります。結局上から押しつけられるにすぎないのではないか。この点について著者はNHKに現に存するある組織に,議論を通じて公共性を絶えず紡ぎ出していく場としての希望を見いだそうとしています(上記日記では当該組織への失望感も表明されています(1月16日付)が・・。)。

弁護士会でも近時「公益」ということがやたらに強調されるようになっていますが,「公」というのは,公共放送の「公」に限らず,それにかかわる個々人同士の議論によって紡ぎ出していくものであって,特定のものを「公共性あり」とか「公益活動である」といって押しつけるものではないだろう,特定のものが「公共」「公益」の名の下に持ち出されるのにはやはり警戒すべきだ,そうした感を強く持ちました。