死刑~他人が死神に取り憑かれるのを望まないような仕組み作りこそ ― 2008年06月25日
権力者への揶揄を自らへの批判として考えるのも危険だと思うんですけどねえ・・
死刑執行の件数を巡り、朝日新聞18日付夕刊1面のコラム「素粒子」が鳩山邦夫法相を「死に神」と表現した問題で、全国犯罪被害者の会(あすの会)は25日、朝日新聞社に趣旨の説明を求める抗議文を送付した。
文書は「感情を逆なでされる苦痛を受けた。犯罪被害者遺族が死刑を望むことすら悪いというメッセージを国民に与えかねない」と抗議した上で、「法相の死刑執行数がなぜ問題になるのか」などと回答を求めている。
犯罪被害者(というか,多くはその遺族)が加害者に対して死刑を望む気持ちは,理解できなくもありません。
しかし,死刑を望むっていうことは,死刑囚(判決確定前は被告人)に死に神が取り憑くことを望むということです。
死に神が人を死に至らしめる決定権を有するものだとすれば,法務大臣は死刑を執行することで死刑囚を死なせるかどうかを最終的に判断する立場にあるのですから,「死に神」としての役割を果たす者と言えるでしょう(参考:死神の仕事,同(2)(玄倉側の岸辺))。
つまり,犯罪被害者が加害者に死刑を望むことは,法務大臣に死に神としての役割を果たすことを望むということです。
そのこと自体,前述のように,犯罪被害者(の遺族)の気持ちとしては,無理からぬところがあり,単純に善悪は論じ得ません。
ただ,人に死に神としての役割を果たすよう望んでいること自体は事実なのであり,そう言われること自体がいやなのであれば,そのような望みを抱き続けずに済むにはどうすればよいのか,ということも考えられてよいように思います。
とはいえ,犯罪被害者(の遺族)自身にそれを考えろというのは酷でしょうから,社会全体で,犯罪被害者(の遺族)が加害者に死に神の取り憑くことを望まなくても済むような仕組みを作っていくことが必要ではないでしょうか。
この点は前にも,行政サービスとしての人殺しを求める人たちを生むものや破棄差戻判決が捨て去ったもので述べたところですが,カウンセリングや,被害者(遺族)の生活保障制度の充実などにより,対処していくべき問題のように感じます。
ところで,引用記事で最も気になったのは,犯罪被害者の会が鳩山法相に対する風刺を自分たちへの批判ととらえていることです。権力による死刑執行と,犯罪被害者(の遺族)が死刑を望む気持ちは別物であるにもかかわらず,です。権力への風刺を自分たちへの批判ととらえるのって,自分たちを権力と一体化して考えているような感じで,まさに司法制度改革審議会意見書のいう「統治主体意識」の貫徹した人たちという感じを受けます。でも,市民は国家権力にとってあくまでも統治の客体(対象)なのであって自分たちが実際に権力を振るう者であるという「統治主体意識」は所詮意識=幻想にすぎません。統治主体意識に酔っていると,結局は権力のいいように使われて捨てられる可能性も大な点にも留意すべきでしょう。
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