ドライヤー盗み罰金30万円2006年07月01日

公務執行妨害でも同じように考えているんでしょうか?

ドライヤー盗み罰金30万円 新設の改正刑法適用東京新聞

改正前の窃盗罪の法定刑は10年以下の懲役で、刑法改正で50万円以下の罰金刑が導入された。改正前は、万引など懲役刑とするには重すぎるケースは起訴猶予にするなどしていた。

山形地検の小池充夫次席検事は「これまでは起訴しなかったような事件でも、罰金を科せられるようになったことで抑止につながれば」と話している。

5月から施行された改正刑法では,窃盗罪の他に強要罪や公務執行妨害罪にも罰金刑が導入されました。

公務執行妨害罪は,公権力と市民とが対峙する中で発生する事件で問題になる犯罪です。市民のさまざまな運動に対して公権力が圧力を加える中で,公務執行妨害であるとして逮捕が行われることも珍しくありません。こうした性格をもつ罪について,「起訴しなかったような事件でも,罰金を科せられるようになったことで抑止につながれば」というのは,いままでは起訴しなかったケースでも刑罰を科すようにするから公権力にはおとなしく従っておけということで,集会やデモ行進などへの公権力の介入への抵抗について,萎縮効果をもたらしかねません。

前にも書いたとおり,今まで逮捕,勾留はしたが起訴していなかったものは,そもそも公務執行妨害に当たらないものとして早期に釈放すべきもののように思います。

また,今回の法改正は形式上は法律上定められている刑が軽くなったというものなので(奥村弁護士のページに詳しくふれられています。),今までに比べ罪の重さが軽くなったものとして,上記の次席検事の発言とは逆に,これまで懲役刑を科されていたものについて罰金刑で済ますといった方向で運用していくことはできないのかということも検討すべきでしょう。

次席検事のコメントは,昨今の重罰化の流れとも符合するものですが,本当に重罰化(刑罰を科することにするという意味での「犯罪化」)で解決するのか,慎重に検討すべきです。窃盗や公務執行妨害が増加する社会的・経済的要因(経済の停滞や格差拡大)や背景事情(公権力による市民への監視,弾圧等の強まり)から解決しなければ,根本的な解決にはならないのではないでしょうか。

精通弁護士2006年07月15日

日本司法支援センター(法テラス)の業務として,犯罪被害者等の支援があるのですが,被害者等の援助に精通している弁護士を指す際の略称として使われていました(日弁連新聞犯罪被害者支援ニュース)。

会話の中で突然出てくると一瞬面食らう単語ですね。 文章中に断り書きがあれば,文脈から何に「精通」しているのかが分かるのでよいのですが・・。

略称に多義語を使う時は気をつけた方がよいように思います。

追記

2005年の段階で日弁連では用いられていた言葉なのですね。しかも対外的説明の書面で注書き無く・・

平成 17 年 6 月 28 日 第5回犯罪被害者検討会・意見メモ(PDFファイル)

4 現時点における活動状況

(4)日弁連から各単位会への要請

H17.5.31付 精通弁護士の要請と名簿作成を呼びかけ

ボツネタのコメント欄でも取り上げられていたようですね(2006年3月13日付)。妙な業界用語を作るのはやめてほしいものです・・。

最高検:供述調書に容疑者らの割り印指示 ミス相次ぎ2006年07月15日

武内先生のブログ(Heimweh nach der Zukunft)経由で知りました。

最高検:供述調書に容疑者らの割り印指示 ミス相次ぎMSN毎日インタラクティブ)

全国の検事や警察官が作成した容疑者や参考人の供述調書に、訂正前の誤った調書が訂正後のものと一緒にとじ込まれていたり、ページ数が連続していないなど、ミスが相次いでいることが分かった。法廷で弁護側から「容疑者の知らない間に、一部分をねつ造したのではないか」と追及された事件もあり、事態を重視した最高検察庁は、調書の全ページに、各ページをまたぐ形で、容疑者らの割り印を求めるよう、全国の各地検に指示した模様だ。

実施すると、在宅の容疑者や参考人の場合は印鑑で済むが、逮捕・拘置中の容疑者の場合、取調室に印鑑を持ち込めない規則になっていることから、指印を求めざるを得ない。このため複雑な事件の場合、調書は数百ページに及び、そのすべてに指印を押させることについて、第一線の現場からは「容疑者との信頼関係が崩れ捜査に支障が生じる」との反対論が出ていた。

逮捕・勾留中の被疑者についても取調室に印鑑を持ち込ませるように規則を改定できないんですかねぇ。逮捕したら指印取り放題などという考えで物事を進めること自体見直すべきように思うのですが。

「第一線の現場」の人たちのいう「容疑者との信頼関係」って何なのでしょうか,自白を取って,調書に署名指印を得るのに苦労するのに,更に割印まで求めるというのでは作業量が増えて堪らないという悲鳴なんでしょうが,自白の獲得に汲々とする捜査方法自体改められるべきものではないでしょうか。

最高検の方針によって,調書を取ることのコストと,他の証拠により立証することのコストについて,今後,前者が増大することとなり,それがひいては後者を中心とした捜査,立証が多くなっていくことにつながるのでしょうか(それがいいかどうかというのは一概にいえません。)。

「脳死」と臓器移植~摘出される側の立場は?2006年07月16日

臓器を摘出される側への想像力はないのでしょうか。

【主張】臓器移植法 改正案の早期成立を求むSankei Web 産経新聞

移植を待つ患者やその家族ら計5団体12万人で構成する「臓器移植患者団体連絡会」が、臓器移植法の一日も早い改正を求め、8月下旬から10月初旬にかけ、福岡、大阪、名古屋、札幌、東京の各都市で順次、シンポジウムを開催する。開催を前に代表幹事の大久保通方氏は「改正案を一度も審議せずに放りっぱなしにしてきた国会の責任は重い」と訴える。

その通りである。継続審議扱いの改正案を秋の国会できちんと審議し、早期に成立させるべきだ。

この産経の社説,「脳死」段階で臓器を摘出されることとなる患者やその家族の立場への配慮が全く見られません。

「脳死」状態での移植については,そもそも認めるべきか否かを含め,日弁連が何度も指摘するように(直近の意見書はこちら(PDF),意見書作成の背景事情はこちら),多くの問題があります。

先日,米国での「脳死」者からの臓器移植の実態や,「脳死」者の様子を映したビデオを見る機会がありました。

まず,「脳死」者からの臓器移植の場面。交通事故で運ばれた病院に次々と他の病院(他州の病院もありました。)から臓器を摘出に移植スタッフが現れるのです。最初に,まだ脈を打っている心臓を摘出する場面は思わず息をのみました。心臓の後,各臓器,そして皮膚,さらには眼球までが摘出されていくのです。まるで部品に解体していくかのように。人体がまさしく資源として扱われていくのです。

続いてベッドに横たわる「脳死」者の様子。「脳死」者というと心臓死直前で動けないというイメージをもたれるかもしれませんが,この「脳死」者は外界からの接触に反応して身体を動かしています。この人が「死んで」いるなんてとても思えません。

また,最近の研究論文では,脳死後も長期にわたり生存する患者の存在があきらかになっており(前記日弁連意見書),脳死を死とする生物学的・医学的根拠に疑問が呈されています。報告例では,4歳の時に「脳死」宣告を受けてから報告時まで14年半を経ても生存し,第二次性徴も迎えているというのもあるほどです。さらに,「脳死」者の中には,出産まで行う人もいるといいます(小松美彦『脳死・臓器移植の本当の話』)。

それに,「脳死」者といっても,心臓は動いているので,身体はあたたかな状態で,さわるとぬくもりが感じられるといいます(森岡正博『脳死の人-生命学の視点から』)。

こうした「脳死」者の様子を目の当たりにして,もう亡くなっていますから医療はできません,臓器を摘出したいと思います,と言われて「脳死」者の家族は納得できるのでしょうか?納得できなくても,医療現場における医師の力(威厳?)に押されて拒否できずに移植されてしまう,そんな悲劇が起きるのではないでしょうか。

ところで,「脳死」がどういうものか,「脳死」者が実際にはどのような状態にあるものなのかに関し,市民に対して政府からは,上記のような現実は伝えられていません。自分の生命・身体をどのように処分するのか決めるよう求めながら,そのような処分がどのような場面で効果を生じるのかについての正確な知識を提供していない,というよりはむしろ,誤解を与えるような説明をしているのです(前記日弁連意見書(PDF)7~10頁(9~12枚目))。

このように政府が市民に誤解を与えるような説明をしている時には,メディアが政府のウソを暴いて正しい知識を市民に提供すべきものなのではないでしょうか。産経新聞の上記主張は,ただ臓器提供を受ける側の主張だけを喧伝するだけのもので,メディアとしての役割を放擲したものです。

上記産経新聞の主張は

今年4月から心臓、肺、肝臓、膵臓(すいぞう)の移植が健康保険の対象となった。臓器移植は特殊な医療ではなく、通常の医療行為になっている。それなのに臓器移植法の施行後、実施された脳死移植はわずか47例にすぎない。年間平均5人しか、脳死ドナーが現れない計算である。

これでは、臓器移植法は「臓器移植のための法律」とは言い難い。

としめくくっていますが,臓器移植法の目的は

臓器の移植についての基本的理念を定めるとともに、臓器の機能に障害がある者に対し臓器の機能の回復又は付与を目的として行なわれる臓器の移植術(以下単に「移植術」という。)に使用されるための臓器を死体から摘出すること、臓器売買等を禁止すること等につき必要な事項を規定することにより、移植医療の適正な実施に資すること(第1条)

を目的とするにとどまるものであって,「臓器移植のための法律」ではありません。

不正確な情報を伝えた上で偏頗的な主張を行うことについては(言論機関だから主張の偏頗性自体はやむを得ないにしても),言論機関としての誠実さに欠けるものと言わざるをえません。

臓器移植法については,「脳死」状態というのは実際にはどういう状態なのかといった点についての具体的な事実を市民に幅広く知ってもらうよう情報提供した上で,改正についての議論を始めるべきであり,改正の可否については慎重に検討すべきだと思います。

自衛権,自衛のための戦力を認めるということは?2006年07月17日

レバノンとパレスチナとイスラエルがとんでもないことになっているようだ。

パレスチナ問題:特集:YOMIURI ONLINE(読売新聞)

asahi.com:朝日新聞 中東和平 ―ニュース特集―

イスラエルとパレスチナの間ではハマス軍事部門がイスラエル兵を拉致したことに対してイスラエルがガザに空爆,侵攻し,イスラエルとレバノンとの間ではヒズボラがイスラエル兵を拉致したことに対してイスラエルがレバノンを空爆している。

こうしたイスラエルの攻撃を正当化しようとすれば,現行の国際法上認められた「自衛権」に基づくものということになろう。

では,自衛権行使の結果はどうか。

当然ながら相手方の反発があり,死者数はイスラエル側,レバノン,パレスチナ側双方ともに増加の一途だ。

さて,自衛権,自衛のための戦力というが,本当に市民を守るものなのか。「戦力」を下手に持つことによって相手方の警戒心を呼び起こし,「自衛権」行使の名の下に武力を行使し人を殺害する(さらには相手方の反撃により市民に死者を出す)結果をもたらすにすぎないものではなかろうか。

自衛権や自衛のための戦力を放棄するというのは,賢明な選択とはいえないだろうか。