代理出産をめぐる「自己決定権」論について2008年01月24日

代理出産を認めるべきだという根拠として,自己決定権という言葉が持ち出されることがある。自己決定権とともに,生殖活動の自由ということが言われることもある。

妊娠・出産をめぐる自已(ママ)決定権を支える会

「代理出産一律禁止、代理母以外の関係者すべて処罰」の学術会議報告書素案提示(下)~憲法に対する意識、日本人の生き方が問われている問題であるBecause It's There

自己決定権を尊重すべきだというと,人権を尊重しているみたいで聞こえがよい。

しかし本当に人権を尊重しているのか?

生殖活動の自由というが,子どもを生んでいるのは代理出産をした人であって,代理出産の依頼者ではない。

代理出産者という他人に契約による義務を課す点で,「自己」決定権といって認めることのできる問題ではなくなっている。

また,依頼者夫婦の生殖に関する自己決定権と言っても,その内実は,他人に子どもを出産してもらい,その子どもを自分たちの子どもとするという内容の契約(民法上は,請負契約ということになろう。)を結ぶことが権利として認められるのか,ということだ。契約をする自由ということでは,他の経済的自由,財産権の行使とそう変わるところはない。公共の福祉(憲法29条2項)に適うように,その内容を法律で定めることのできるものと考えてよいのではないか。もちろん,代理出産契約自体を法律で禁じることも可能だろう。

目を代理出産者に転じてみる。

代理出産者は,契約により,生活上の自由を制限される。喫煙,飲酒,性交渉その他諸々の制限が日常生活にかかってくる。それも,10か月もの期間を通じて。また,依頼者夫婦から中絶の要求があった場合には応じなければならず,一方で,代理出産者には中絶の自由がない。

こうした制限は,「自己決定権」によって正当化できるのか。

正当化できるとすれば,それは,「自己決定権」によって,代理出産者に権利を認めているのではなく,代理出産者に義務を課すことを正当化していることになる。 自己決定権という名のもとに,いったん契約に同意したのだから義務を甘受しろという形で,代理出産者に「自己責任」を負わせているのである。

「自己決定権」というと権利を認めるもので結構なものという感じを受けるが,実際には「自己決定権」を行使したのだから,そこまで言わずとも「自己決定」したのだから「自己責任」を負えと言って他人に義務を課すことを正当化しているのだ。欺まん以外の何ものでもない。

ところで代理出産容認論者は,以下の問題についてどう考えるのだろうか。

  1. 代理出産者が,依頼者からの要請に反し,産んだ子供を引き渡したくないと考えた場合でも,代理出産者は依頼者に対して産んだ子どもを引き渡す義務を負うか。
  2. 代理出産者が依頼者の要請に反し子どもを引き渡さなかった場合,損害賠償義務を負うのか。
  3. 代理出産者が中絶を希望した場合,契約上中絶が禁止されていたからといって,代理出産者は中絶を諦めなければならないのだろうか。
  4. 依頼者夫婦が中絶を希望した場合,代理出産者は中絶しなければならないのだろうか。

契約時に自己決定権が保障されていたのだから契約上の義務には従わなければならないという論理からすれば,上記質問に対しては,契約上定められているのであればいずれもYESである,ということになろう。

しかし,契約締結時に「自己決定権」を行使できたからといって,その後の制限が正当化できるのであろうか。

「自己決定権」の行使によって結ばれたはずの契約という点では労働契約だって同じはずだが,労働契約の拘束力については,労働法によってかなりの修正が加えられている。

一般に労働市場において,使用従属関係にある労働者と使用者との交渉力は不均衡であり,また労働者は使用者から支払われる賃金によって生計を立てていることから,労働関係の問題を契約自由の原則にゆだねれば,劣悪な労働条件や頻繁な失業が発生し,労働者の健康や生活の安定を確保することが困難になることは歴史的事実である。(「規制改革会議「第二次答申」に対する厚生労働省の考え方」)

という考え方は,代理出産者と依頼者との関係にも当てはまるのではないだろうか。

代理出産者に志願する理由としては,貧困のためとされるケースが多い。日本のタレント夫婦の依頼を受け代理出産者となった女性も,夫が自己破産しており,家のローンに報酬をあてることが代理母の目的の一つであるとしている。(向井亜紀の代理母が語った「報酬」と「自己破産」

代理出産者は,報酬を得ることを優先するあまり,不利な条件であってものんでしまう。そのような条件について,自己決定権の行使の結果として受け入れたからといって,履行を強制してよいのかどうかは慎重に検討すべきだろう。

代理出産の依頼者となったタレント夫婦は,多胎妊娠をした代理出産者が減数中絶を希望したのに対し,(やんわりとかもしれないが)その希望を拒絶し,代理出産者は依頼者の要望を受け入れ,減数中絶を断念している(減数中絶自体にも問題があるが,その点は措く。)。

「双子であることについては、私の体が臨月まで耐えられるかどうか自分の子供の世話や生活もあり、すごくそのときは不安を感じてしまって悩んだ末に減胎を申し出たんです。つまり、双子のうちのひとりを堕胎したいといったのです。しかし、アキの強い意志と希望を聞き、また医師の安全であるという説明をうけて、双子を生むことを決心したんです」(大野和基 向井亜紀の代理母 インタビュー

金主である依頼者の「強い意志と希望」,医師の安全であるという「説明」。これらを受けてなされた「決心」が「自己決定」と言えるのであろうか。

抽象的に自己決定権さえ保障すればいいのだという考え方は,経済的に弱い立場にあることの多い代理出産者と,金主となる依頼者という具体的関係に目をふさぎ,強者の論理を貫徹しようとするものだろう。ネオリベ的考え方ともいえる。

無報酬でならよいとする考え方にも問題がある。

無報酬といっても仲介者,代理出産者には何らかの金員が支払われるのが通常であり,「無報酬」という言い方自体詐欺的である。(臓器移植・代理出産等で無償性を強調することの欺瞞

また,対価無しで他人のために代理出産を引き受けようとする人はそう現れないだろうから,考えられるのは親族による代理出産ということになろう。

家を守るために,お姉さん(又は妹)が可哀想だから,という理由で,代理出産が強制されるおそれはないのか。

また,代理出産という手段があるのだからという理由で,その利用を押しつけられたりすることにならないか。

以前の記事hさんがコメント欄で書かれたように,現代日本の家族関係の中では,依頼者や代理出産者となることについての「強制や誘導」がかなり多く発生するようになるだろう。

「自己決定権」を強調することは,そのような状態でなされた代理出産であっても,問題が生じたときには,「自己決定権」の行使だからということで,周囲の者の責任は不問にされ,依頼者夫婦と代理出産者間の問題にされるのではないか。

自己決定権がうたわれるときには,それがほんとうに権利保障に資しているのか,義務を課すことの正当化に用いられていないかという点に注意が必要である。

代理出産を認めることは,一握りの者の利益の追求を可能にすることとひきかえに他者に「自己責任」という形で義務を押しつけるものである。

代理出産の場合「自己決定権」は人権を尊重することよりもむしろ人権を抑圧する原理として働いているのである。

裁判員は国民の責務?2008年01月24日

日弁連会長選挙の某地方公聴会で,裁判員制度推進派の候補が,裁判員となることについて国民の責務だと言ったらしい。

おいおい・・・・・・・・・・。

弁護士自治とか自分たちの業界のことについては「市民の理解と支持」を得なくてはいけないとかいって外部の声に屈服するのに,国策については市民の「説得と強制」にいそしもうというのかね。

私が弁護士になったばかり(2000年)のころ,日弁連は日本最大のNPOとかいって誇っていた執行部派弁護士がいたが,いつから日弁連は公権力の宣伝部隊になったんだ?